東海三県(愛知・岐阜・三重県)の上古(古墳時代)から江戸時代末期頃までの古い庭園を探訪した。
上古(古墳時代)の庭園遺跡としては、城之越遺跡がある。発掘された遺跡で祭礼の為のものと考えられている。 最古の庭園遺跡と考えられてはいるが、果たして庭園遺跡であるかは疑問である。現在調査・研究されている。 祭礼の為のものと思われるが定説はないようである。
景観に配慮した園池・築山のある庭(造り庭)・観賞を目的とした古い庭園としては、愛知県春日井市の内内神社庭園・岐阜県多治見市の永保寺庭園(虎渓山)・三重県美杉村の北畠神社庭園の三庭が考えられているが、東海三県には少なく庭園文化としてはあまり見るべきものがない。 ただ城郭庭園(大名庭園)として名古屋城二の丸庭園・三の丸庭園(江戸時代?-作庭時代不明)寺院庭園としては妙厳寺(豊川市)庭園・華蔵寺(吉良町)庭園、西明寺庭園(豊川市)→(愛知県)その他旧庭程あるが、ほとんど非公開である。
故澤田天瑞先生は、祭礼の庭として尾張大国霊神社の磐座(いわくら)・津島神社の泮池を挙げているが、庭園遺跡であるかどうかは不明である。又先生は、庭園文化として愛知県では江戸末期から明治時代までで古い庭園としては見るべきものはほとんどなく、安土桃山時代以前の庭園は愛知県では皆無で庭園文化を受け入れる素地は無かったと考えている。岐阜県・三重県については調査・研究する必要があると思う。
1.内内神社庭園(春日井市内津町24)
内々神社縁記には「延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)」(927)に名のある古い神社(式内社という)である。 祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)・日本武命(やまとたけるのみこと)・宮簀姫命(みやすひめのみこと)で創建は日本武命の東征に深い関係があり、「妙見宮由緒書(吉見幸和著702年)によると景行天皇41年尾張連祖建稲種命(おわりむらじそたけいなだねかみこと)を祀ったのがはじまりであると記されている。 内々神社庭園(県指定・名勝)パンフレットには、南北朝時代(鎌倉時代~室町時代)の禅僧夢窓国師(1275~1351)によって作庭されたと伝えられ、西芳寺庭園(京都)・永保寺庭園と同じ、廻遊式林泉型であると記されている。
又一説では夢窓国師が当神に来遊して作成したという伝称があるが、後の時代(江戸後期)生まれた伝説であるとも伝えられている。この池庭が本殿背後に作庭されていて本殿のどこの位置からも観賞出来ない庭であること。 故重森三玲氏による日本庭園史大系によると、殊に神社には、いづれの神社にも古庭園は(造り庭)は存在しない北畠神社にも庭園はあるが、これは北畠晴具の館の庭園であり神社の為の庭園ではない。 内々神社にも、江戸初期頃まで妙見寺があり、その妙見寺の書院裏庭として作庭されたものと考えられる「尾張名勝図絵」にもこのことが記されている。 又故澤田天瑞氏も江戸初期(元禄時代)妙見寺宮殿(書院庭園)庭園として作庭されたと紹介し「池泉観賞庭園」であると説明している。 庭園は、背後の山裾が左右に迫り中央が池泉で清水を湛え大変美しい庭である。
神社背後の山上にある奥院の岩窟・中腹にある天狗岩と称する岩窟等が、山全体磐座的であることから、神社全体が磐座を中心とする上古式の神社であったと考えられる。 内々(うつつ)は現(うつつ)で磐座の存在が現神であったことから背後の神山が巨岩で満ちていた山であったことなどから、鎌倉末期に作庭された庭園であるという説が伝えられたと考えられる。
様式は、観賞池庭式(回遊式でない)で、現在の本殿からは観賞出来ない。 現在の池庭と建築は全く矛盾していて、本庭は内内神社本殿の庭でなく、妙見寺書院から観賞されていた池庭であると考えられる。
江戸時代初期元禄年間に作庭された妙見寺客殿の庭園で面積約3百坪(1,000平方メートル)で、庭園秘伝書「嵯峨流庭古秘伝書」に基づいた鶴亀式蓬莱式池泉庭園であると故澤田天瑞氏は明記している。
本庭の地割は、池泉を中心に周囲を山で取り囲み、池泉南端からの礼拝石から正面の中島を観賞し滝石組上部の守護石(三尊石組)東部の出島の円板石とその脇の春日灯籠(高さ五尺)を観賞する。西岸の出島には、巨石の石組がある。北側は平坦地で巨石が散在し、これを「こしき石」と称している。右手大石付近から岩角が聳え立ち三大巨大峯上と呼ばれ庭園の背景となっている。(「天狗岩」又は「影向岩」)
中島は、蓬莱島(亀島)で亀頭石(鶴島説もある)へ中心に二重集団石組となっていて、亀脚石・亀尾石が揃って組まれている。池中には岩島が三石ある。一石は水分石、他の二石は礼拝石の両側にあり二神石を構成しているとされている。西部の石組みは鶴島手法と考えられ南部に鶴首石が用いられ、水面上1.5m高の横石、中心に90㎝高の中心石、左右に羽石があり向かって左約63㎝高、右に1.70m高に据えられている。本庭正面に滝石組、水落石の北部の石組が亀頭石といわれ、その上に0.80m高の大石が組まれている。さらにその上部に1.05m高の大石があり、水落石は約2.0m高で、3段の落水になるように豪華に組まれている。滝の上部には1.5m高の遠山石の巨石が配されている。
>>日本庭園[Ⅱ] へ
上古(古墳時代)の庭園遺跡としては、城之越遺跡がある。発掘された遺跡で祭礼の為のものと考えられている。 最古の庭園遺跡と考えられてはいるが、果たして庭園遺跡であるかは疑問である。現在調査・研究されている。 祭礼の為のものと思われるが定説はないようである。
景観に配慮した園池・築山のある庭(造り庭)・観賞を目的とした古い庭園としては、愛知県春日井市の内内神社庭園・岐阜県多治見市の永保寺庭園(虎渓山)・三重県美杉村の北畠神社庭園の三庭が考えられているが、東海三県には少なく庭園文化としてはあまり見るべきものがない。 ただ城郭庭園(大名庭園)として名古屋城二の丸庭園・三の丸庭園(江戸時代?-作庭時代不明)寺院庭園としては妙厳寺(豊川市)庭園・華蔵寺(吉良町)庭園、西明寺庭園(豊川市)→(愛知県)その他旧庭程あるが、ほとんど非公開である。
故澤田天瑞先生は、祭礼の庭として尾張大国霊神社の磐座(いわくら)・津島神社の泮池を挙げているが、庭園遺跡であるかどうかは不明である。又先生は、庭園文化として愛知県では江戸末期から明治時代までで古い庭園としては見るべきものはほとんどなく、安土桃山時代以前の庭園は愛知県では皆無で庭園文化を受け入れる素地は無かったと考えている。岐阜県・三重県については調査・研究する必要があると思う。
1.内内神社庭園(春日井市内津町24)
内々神社縁記には「延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)」(927)に名のある古い神社(式内社という)である。 祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)・日本武命(やまとたけるのみこと)・宮簀姫命(みやすひめのみこと)で創建は日本武命の東征に深い関係があり、「妙見宮由緒書(吉見幸和著702年)によると景行天皇41年尾張連祖建稲種命(おわりむらじそたけいなだねかみこと)を祀ったのがはじまりであると記されている。 内々神社庭園(県指定・名勝)パンフレットには、南北朝時代(鎌倉時代~室町時代)の禅僧夢窓国師(1275~1351)によって作庭されたと伝えられ、西芳寺庭園(京都)・永保寺庭園と同じ、廻遊式林泉型であると記されている。
又一説では夢窓国師が当神に来遊して作成したという伝称があるが、後の時代(江戸後期)生まれた伝説であるとも伝えられている。この池庭が本殿背後に作庭されていて本殿のどこの位置からも観賞出来ない庭であること。 故重森三玲氏による日本庭園史大系によると、殊に神社には、いづれの神社にも古庭園は(造り庭)は存在しない北畠神社にも庭園はあるが、これは北畠晴具の館の庭園であり神社の為の庭園ではない。 内々神社にも、江戸初期頃まで妙見寺があり、その妙見寺の書院裏庭として作庭されたものと考えられる「尾張名勝図絵」にもこのことが記されている。 又故澤田天瑞氏も江戸初期(元禄時代)妙見寺宮殿(書院庭園)庭園として作庭されたと紹介し「池泉観賞庭園」であると説明している。 庭園は、背後の山裾が左右に迫り中央が池泉で清水を湛え大変美しい庭である。
神社背後の山上にある奥院の岩窟・中腹にある天狗岩と称する岩窟等が、山全体磐座的であることから、神社全体が磐座を中心とする上古式の神社であったと考えられる。 内々(うつつ)は現(うつつ)で磐座の存在が現神であったことから背後の神山が巨岩で満ちていた山であったことなどから、鎌倉末期に作庭された庭園であるという説が伝えられたと考えられる。
様式は、観賞池庭式(回遊式でない)で、現在の本殿からは観賞出来ない。 現在の池庭と建築は全く矛盾していて、本庭は内内神社本殿の庭でなく、妙見寺書院から観賞されていた池庭であると考えられる。
江戸時代初期元禄年間に作庭された妙見寺客殿の庭園で面積約3百坪(1,000平方メートル)で、庭園秘伝書「嵯峨流庭古秘伝書」に基づいた鶴亀式蓬莱式池泉庭園であると故澤田天瑞氏は明記している。
本庭の地割は、池泉を中心に周囲を山で取り囲み、池泉南端からの礼拝石から正面の中島を観賞し滝石組上部の守護石(三尊石組)東部の出島の円板石とその脇の春日灯籠(高さ五尺)を観賞する。西岸の出島には、巨石の石組がある。北側は平坦地で巨石が散在し、これを「こしき石」と称している。右手大石付近から岩角が聳え立ち三大巨大峯上と呼ばれ庭園の背景となっている。(「天狗岩」又は「影向岩」)
中島は、蓬莱島(亀島)で亀頭石(鶴島説もある)へ中心に二重集団石組となっていて、亀脚石・亀尾石が揃って組まれている。池中には岩島が三石ある。一石は水分石、他の二石は礼拝石の両側にあり二神石を構成しているとされている。西部の石組みは鶴島手法と考えられ南部に鶴首石が用いられ、水面上1.5m高の横石、中心に90㎝高の中心石、左右に羽石があり向かって左約63㎝高、右に1.70m高に据えられている。本庭正面に滝石組、水落石の北部の石組が亀頭石といわれ、その上に0.80m高の大石が組まれている。さらにその上部に1.05m高の大石があり、水落石は約2.0m高で、3段の落水になるように豪華に組まれている。滝の上部には1.5m高の遠山石の巨石が配されている。
>>日本庭園[Ⅱ] へ
※本庭の詳細の調査報告は、故澤田天瑞先生の「内内神社庭園」「中部庭園同好会」昭和61年11月例会-VOL-13号に詳しく記されている参照されるとよい。 又参考文献としては、「日本庭園史大系」重森三玲(※「嵯峨流庭古秘伝書」) 「緑風」(1994年10月5日27号と2003年1月15日号) :「愛知県造園建設業協会編」澤田天瑞 最後に、愛知県下で乏しい庭園文化の中で大変貴重な古庭園である。改変 されることなく保存整備されることを期待する。大変美しい古庭園である。
---